[祝大千秋楽]春風桃李巵が描いた、大倶利伽羅の悔しさと鶴丸の心の穴
双騎、お疲れ様&ありがとうございました!!!
無事に大楽を迎えられて本当に本当にうれしかった……!
今回はチケットが取れず、現地で観ることが叶わなかったので、初日と大楽の配信をみての感想をしたためておきます。
内容は、顕現したばかりの大倶利伽羅と古参の鶴丸国永が、伊達政宗を守る任務に就く、というものでした。
春風桃李巵(*1)という副題から察せられるように、伊達政宗の回想録として描かれています。
不立文字のごとく、伊達政宗の書いた手紙に基づいて鶴丸と大倶利伽羅が「体験」するかたちで、物語が紡がれていきます。
要は伊達政宗の生涯を通じて、鶴丸と大倶利伽羅が信頼関係を構築する過去エピソード、なんですけど……。
そのさ〜〜!信頼関係の構築の仕方がさあ〜〜?!?!!!!!!!!!!!!!
以下、狂いを三本立てで吐き出していきます。
「悔しさ」を知り、鶴丸を深く信頼するようになる大倶利伽羅
秀吉が統べる時代に生まれ、関ヶ原にも出兵し損ねた伊達政宗は、「天下を獲り逃した」男です。
今回、春風桃李巵ではそこに焦点を当てながら、大倶利伽羅が政宗公に共鳴し、感情を認知していくさまが描かれていました。
大倶利伽羅が初めて知った感情が「悔しさ」なの、め〜っちゃ良い。めちゃくちゃ良い。“らしい”。あまりにもらし過ぎる。最高。
中盤、大倶利伽羅は伊達政宗の生き様に共感し、「なぜ戦わず屈した!」と激昂します。
そして一人で戦おうとするのですが、顕現したての大倶利伽羅では敵うはずもなく。加勢した鶴丸は、彼を冷たい目で大倶利伽羅を見て言います。「命預けられてもねえのに手ェ出して、悪かったな」。
こっからさ〜〜!デュエットが増えていくわけよ!わかる?!(?)
開始1時間12分ごろ、パライソで大倶利伽羅が歌った「白き息」に乗せて、鶴丸が歌います。
鶴丸は大倶利伽羅の背中に、「赤く滲む悔しさ」を見ていました。
そのとき、大倶利伽羅も、自身の「抗えぬ弱さ」を自覚し、「悔しさに疼く」ことを認知するのです。
「その背中を預ける時は来るのか」。
来るよ!!!!!!!!!!!!!
そこから約20分後、欧州へ渡る支倉常長を狙う時間遡行軍に、なんとふたふりで対峙します。
ここのデュエットがさ〜!最高なんだ〜〜!
ここの鶴丸、「軽妙で酔狂であっても戦うことを忘れたことはない」という公式の説明文まんまなんですよ。
岡宮来夢くん!!!!!!ありがとう!!!!!の気持ちになる。推しててよかった〜〜〜〜〜!
一人でやらせてくれという大倶利伽羅の申し出を尊重した鶴丸は、戦いを見守ります。「武人の仕切り直しだ」と歌い、それを初陣と賛辞するのです。
倒したかのように思われた直後、再び現れた遡行軍に鶴丸が斬られてしまうのですが、それを見て大倶利伽羅が奮起します。
(余談なのですが、ここ、お守りが発動したのかな?と思いました。)
敵を退けたあと、何事もなかったかのように鶴丸は立ち上がるのですが、そこで怒る大倶利伽羅!ワ〜〜!心配だったんだね!!!
鶴丸は「冗談が過ぎた」と笑うのですが、その足取りはおぼつかず、よろめいています。まるでパライソの終盤のように。
ア゛〜〜!うめき声あげちゃった。
そうか〜〜。ここで初めて見たんだよ。大倶利伽羅は、鶴丸が弱さや辛さを見せず笑う刀であることを、ここで、知ったわけですよ!
だからパライソではそばに控えて、最後の最後、鶴丸がよろめいた瞬間支えたんだ〜〜。アワ〜〜。強固な…信頼関係……。
それがアイデンティティであるがゆえ、かたくなに「一人で十分だ」と言い張る大倶利伽羅。
彼に「命を預け合う」ことを教えたのは鶴丸でした。
それがみほとせで吾平を失ったあとの「“だから”馴れ合いたくなかったんだ」につながるんだ〜?!と思いました。最高。
「命を預け合う」ことの大切さを、それが「諸刃の剣」であることを、この任務で知っていたから。先に…鶴丸に教えてもらってたから……。
心に「空いた穴」を「埋めずに逃げる」ことを選択した鶴丸国永
鶴丸に大切なことを教わった大倶利伽羅は、彼を深く信頼するようになります。
第一部開始10分ごろ、顕現直後の大倶利伽羅をボコボコにした後、鶴丸は舞台後方で穴を掘ります。
おそらく、「心の穴」を比喩していると思われます。
それだけでもしんどいんですが…。
最後の方、任務を終えて本丸に帰還した後、鶴丸はその落とし穴に落ちるのです。
彼に手を差し伸べて引っ張り出した大倶利伽羅が、そして、言うのです。「驚いたのはこっちだ」。
それを聞いた鶴丸は、みるみるうちに目を見開き、頬を緩ませ、口の端を歪めます。
ここがすっっっごい引っかかっていて。
大倶利伽羅が手を差し伸べたことに対しての驚きだとするなら、「驚いたのはこっちだ」の後表情が変わるのはおかしいんですよ。
そのセリフのあと表情が変わったということは、鶴丸は、大倶利伽羅のその言葉で感情が動いた、ということになるのです。
落とし穴が、鶴丸にとっての「心の穴」なのだとして。
大倶利伽羅の「“驚いた”のはこっちだ」というセリフは、鶴丸の「心の穴」に掛かっていたのではないでしょうか?!
つまりあのシーンは、“鶴丸の心の穴に驚く大倶利伽羅”の暗喩と取れるわけです。こじつけです!!!
でもそうすると私の中ですっごい納得がいくんですよ。
鶴丸の「心の穴」から彼を引っ張り出したのにも関わらず、「驚いた」とだけ返した大倶利伽羅に、このとき、鶴丸は預けても良いと思ったんじゃないかな、って。
鶴丸はその穴を埋めることなく、ごまかして逃げていきます。「心の穴を埋めずに逃げる」という「選択」ができたわけです。
そして、大倶利伽羅は追ってきてくれた。
パライソで、偽悪的に振る舞う鶴丸を諌めることも止めることもせず、そばで寄り添ってくれたように。
大倶利伽羅なら自分を受容してくれる、鶴丸がそう信頼したのは、この時だと思います。
強固〜〜〜!大感謝。
刀ミュ本丸についての考察
じゃあ、鶴丸の「心の穴」って、なんなんだろう。
顕現した直後、なぜか鶴丸は大倶利伽羅に手合わせを仕掛けます。顕現、したばっかりの大倶利伽羅、を!古参の鶴丸が!ボコボコに!!!!!なんで?
正直大興奮はしました。顕現直後弟分即暴力理解鶴丸、パライソ千秋楽のカテコ後に今回の公演を告知する形で見せてくれて、なのにパライソの円盤には収録されてなくて、あれって審神者の集団幻覚だったのかな?って思ってたので。
現実だった。良かった〜〜!
でも、なんで?
怒りと驚きと悔しさと苦痛を教えるためとはいえ、ボコボコにする必要はあったんですか……?
そのあと、審神者に任務を命じられて出陣することとなり、鶴丸は大倶利伽羅に言います。
「ドーンとやってバーンだ!」「うちの本丸じゃこれで通じる」。
……誰にも通じてませんが。
そう、誰にも通じてないんですよ。鶴丸の「言葉足らず説明」。
ねえ〜〜やっぱこの本丸、一回崩壊してません〜〜〜?!?!!!!!!
江水で描かれ(匂わせられ)た「折れた初期刀」は歌仙だと思うのですが、歌仙が折れた後、山姥切も三日月もそして鶴丸も、みんなどっかおかしくなっちゃったのかな、って思いました。
要所要所で匂わせられていた「月が欠けていく」「食われていく」「月の裏側」、そのまま三日月宗近を指していると思うのですが、あのころからふら〜っと本丸を離れて物部を作るようになったんでしょうね。
鶴丸が落とし穴を掘るようになったみたいに。
三日月は「三日月宗近という機能」をもって暗躍するようになり、
山姥切は、いつ折れても良いという心持ちで任務にあたるようになった。
折れたのが歌仙だけなのか、この3振り以外を残して崩壊してしまったのか、それは現時点ではまだわかりません。
楽しみ〜〜!
鶴丸は冒頭の真白な鳥で「今は一休み」と歌っていたので、しばらく本公演はないかな?と思うのですが。
また大悟くんのまんばもみたいな〜!
付記として。
この2年、おもに岡宮来夢くんの「感情表現」に焦点を当てて、くるむくんの演技を見てきました。
それでめちゃくちゃ…めちゃくちゃ驚いたんですけど…、感情表現の、幅!すごい広がってないですか?!
去年の王家でのルカの演技もパライソの演技も大好きだったんですが、今年はもっとすごくなってた気がします。
特に、終盤、大倶利伽羅の「なんだ」に対して「いいやあ?」と返すところ。
驚き、戸惑い、喜び、喜んだ自分に対する自己嫌悪。そんなふうに受け取れました。
それから不立文字!最高だった〜〜!
「小十郎様〜!」のコント演技も初日と大楽だと全然違っていて、演じながら精査されていったんだろうな。
小十郎の妻を演じているとき、愛姫として歌うとき、そして秀吉を演じているときと、それぞれ違う感情を表出し、まったく異なる表情を見せつつも、でもちゃんと鶴丸国永で。
ア〜〜。現場に行きたかったな。
私はいつも劇場で双眼鏡を使ってくるむくんの表情を見てるんですけど、今回はそれができなかったので…。
めちゃくちゃ悔しいです。
もしも再演があれば…もっと大きい劇場で…なにとぞ……。
*1
…伊達政宗が晩年に詠んだ漢詩の最後の一説より。「只把春風桃李巵」。春風の中、桃や李の花を見ながら、ただ杯だけを手にとっている、という意味です。
参考文献
伊達政宗 酔余口号 酔餘口号 日本漢詩選 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩 Ribengushi
*2
…途中、鶴丸の「冗談じゃなく、手紙ひとつで歴史は変わるのかもな」というセリフを聞いて、やっぱり、江水での任務は鶴丸なら「放棄された世界」にならずに済んだやつだったんだな〜と思いました。なんでまんばにさせたんだろ〜?!
青春は痛い、痛いから美しい[舞台ブルーピリオド感想]
今回は最初から現地での観劇は諦めていました。早朝から飛行機乗ってマチネ観て最終便で帰る、って無茶ができるキャパが残ってなかった。関東に住みてえ〜〜!無理だけど!
なので、配信での視聴の感想です。
今回の作品もバナナフィッシュと同様、未読の漫画が原作だったので、推しが主演を務めると解禁されてから読みました!
私は高校に行ってないので(入院してたので)(ちなみに高認を取ってから大学進学・卒業しました)、
青春、とくに10代の子たちの青春をファンタジーのようにとらえているふしがあります。そして、ブルーピリオドはダークファンタジーでした。
青春なんだけど、痛い。ぐさぐさと刺さる。青春の持つ狂気と悲嘆という側面を、鋭く描き出していると感じました。
ぐさぐさと刺さったのは、八虎くんが自分と重なる部分が大きいキャラクターなのもあったかもしれない。私は間違いなく、溺れてる人がいたら救命道具を持ってきて助かるまでそばにいるタイプです。(*1)
ユカちゃんのその例えでいうと、岡宮来夢くんはなんとなく、一緒に溺れてくれそうなタイプだな、って思いました。
くるむくんも八虎くんもどこか似ているというか、はっきり言うと「不自然なくらい良い子」じゃないですか。sparkle vol.47で、笹森くんから「周りに気を遣って、空気を読む感じ」を共通点として挙げられたと仰ってましたね。(*2)
でも、同じ「良い子」でも、ベクトルが違う気がしていたのです。八虎くんは処理をしたうえで周りに気を遣っているんだけど、くるむくんはどちらかと言うと、反射でやっている感じがしてます。いちオタクの勝手な意見です。八虎くんが頭で考えて空気を読んでいるのに対して、くるむくんは肌で感じて空気を読んでいる印象。繰り返しますが、いちオタクの勝手な意見です。
だけど、だから、くるむくんが演じることで、八虎くんの「"不自然な"くらい良い子」なところが、説得力を持って提示されるんじゃないかな、と期待していました。
期待してたんですよ。
八虎が母親に絵を渡すシーンぼろぼろ泣いたが………………?やば…。やられた。
このくるむくんを…生で…観たかった……!っていう悔しさでいっぱいです。今。
くるむくんのこういう、こういう、「役を生きている」演技が本当に本当に大好き。
5Gハムレットの感想記事でも書いたんですけど、くるむくんが演じると、そのキャラクターに親しみやすさが生まれて感情移入しやすくなる気がしていて。
私は原作の八虎にシンパシーを抱いていたので、そのぶんにくるむくんの演技が加算されて、もう大変なことになりました。感情が。
そうだよね、八虎は絵を描いて初めて自分のことが話せたんだよね、理解してもらえたんだよね、だからそれをもっと知りたくて美術の道に進みたいんだよね、、わかるよ〜〜〜!って興奮してます。もうほんと。ほんとにそう。
ただ、一点だけ。
少しがっかりした点もありました。
私、原作の、八虎とユカちゃんがお互いぶつかり合って、自分のヌードを描いて見せ合うエピソードが大好きなんですよ。あのシーンの、ユカちゃんに対してだけ八虎は一度自分を剥き出しにした、腹を割って中身を、自分の熱を見ることができた、っていうのがすごい…すごい…大好きで…!
てっきり、あれをクライマックスに持ってくるんだな!と思って、しかもユカちゃん役は笹森裕貴くんだし!ってすごい楽しみにしてたんですけど、ア、なかった…。でも二次課題はヌードのまんまでしたね。そっかあ、って思いました。ちょっと説得力に欠ける気が…。ウン。ごめんなさい〜〜!吐き出し。
でもすごい全体的によかったです!
現場で観たら音と光も華やかできらびやかで、より没入できたんだろうな。
続編があったら、今度こそ観に行きたいなあ。スケジュールなんとかする。藝大編のがヒリついててしんどいお話なので、演劇にするにはどうなんだろう、とは思うのですが。
*1
(自分語り注意)
入院してた頃仲良くなった子が摂食障害で、退院してしばらくは二人でよくビュッフェに行きました。食べた後、彼女がトイレにこもるのを待ってました。それからしばらく経って、「あの時もう食べるのやめなって言わないでくれてありがとう」と言われました。社会福祉士としての価値観の基礎になった経験の一つです。
ユカちゃんはあの時、一緒に溺れてほしかった、一緒に過食して嘔吐してほしかったのかもしれないけど、寄り添ってほしい人もいるし、人それぞれですよね。
*2
sparkle vol.47
[舞台BANANAFISH後編感想]そして、幸せを抱いてアッシュは眠りについた[再演希望]
舞台BANANA FISH後編、お疲れ様でした。
中止はとってもとっても残念だけど、再演されることを願って、配信を観て書き留めていたことを記事にします。
なんでアッシュは死を選んだんだろう。
あの後、ラオに刺された後、すぐに治療すれば助かったのに。アッシュはそのまま図書館に入り、英二の手紙を広げて、眠りにつきました。幸せな顔で。
前編をみたときに思いました。なぜ、英二はアッシュのそばにいたいと思ったんだろう。
原作を読んで前編を観てもうまく言語化できなかったそれが、後編のくるむ英二をみてしっくり来ました。
愛してたんだよ。
そうか〜〜。愛してたのか。子どもを愛する親のような、慈愛のような愛情でしたね。もう大丈夫だよ、ママがそばにいるからね、みたいな。
これは私の解釈なのですが、英二は映写スクリーンみたいだなと思います。純粋な、子どものまま大人になったみたいな子。子どもがなんでも吸収するように、周囲の真似をするように、英二は相手を映写して反射する。相手の望む姿になる。無意識のうちに。ちなみに、岡宮来夢くんも似たところがある気がしています。あくまで個人的な意見です。
そんなふうに、相手の望む姿になる英二が、アッシュに寄り添った。孤独を抱えて震えるアッシュを慈愛で包み込んだ。アッシュがそれを求めていたんでしょうね。"理解"る〜〜〜!わかるよアッシュ………………。怖かったよね………………………。
アッシュは英二に母を求めていた。だから、英二と離されたアッシュはどんどん弱っていった。うれしかっただろうな。英二が自分のためにゴルツィネを撃ってくれたこと。…怖かっただろうな。英二はアッシュのために銃が撃てるようになりました。ニューヨークに来て、アッシュと過ごして、それを覚えてしまった。無自覚のうちに。
「一緒に日本に行こう」と言われて、アッシュはどれだけうれしかっただろうな。けれど、歓喜はほんの少しだけ、あとは大きな恐怖におそわれたと思います。日本では銃を持つ必要がない。つまり、アッシュが英二に与えられるものは何もない。日本に帰ったら、英二にアッシュは必要ない。要らなくなる。
それでも英二は幸せに生きていけるけれど、アッシュはそうではない。アッシュにとっては、劇中のこの瞬間だけが幸せだった。「こんなに幸せなことはない」、「幸福でたまらない」。幸せの絶頂だったのだと思います。
アッシュは、英二は日本に帰れば自分のことなんて忘れて、幸せに暮らせると思っていたんじゃないでしょうか。
英二はずっと、「人間は運命を変えることができる」「運命から君を守りたかった」と伝えていたのに、アッシュにはそれが伝わらなかった。前編感想記事でも書きましたが、アッシュは英二の自分への想いを理解していなかったんですよね、手紙を読むまで。
いや、伝わっていた、理解しかけてたのかもしれない。
でも終盤、英二は撃たれて、そしてブランカが言います。「共犯者にする気か」、「彼はお前を救うために存在しているんじゃない」。その瞬間、アッシュは掴みかけていた英二の自分への想いに対する理解を手放してしまった。
すさまじい罪悪感だったんだと思います。「男娼上がりで殺人鬼」の自分が英二を巻き込んでしまった、早く平和な世界に帰さないと、って、そればっかりになっちゃった。
二人は最後、顔を合わせることさえできない別れだったんですよ。病院で、中に入る前に引き裂かれて。ここで見つめ合って手を取り合えていたら、英二が自分を想ってくれていること、同じくらい大切で、そばにいたいと思っていることが理解できたのかもしれない。
でも、一番の分岐点はやっぱり、キリマンジャロの雪に触れたシーンだったと思います。あのとき、英二が「安心した」ように、アッシュのことを理解できたように、アッシュも英二を理解できていたらな、って。「人間は運命を変えることができる」、なぜなら「ぼくがそばにいる」からだって。理解できていたらな。「ずっとだ」って、言ってくれてたのにな。
アッシュの孤独を理解して寄り添ってくれたのは英二だけで、だからこそ、それを受け止めてくれたからこそ、英二がアッシュの中で神聖視されていったような気がします。
舞台版、原作よりしんどめの演出になってましたね……。英二が…英二がそばで………………。なんだこれ。初日に配信でみて、思わずウワーッて叫びました。耐えられなかった。ピアノの音やば〜〜。
そりゃあさあ、アッシュからしたらもうこの幸せを抱いてここで終えたい、って思うよ…。だって今が幸せの絶頂だもん。英二が、「僕の魂はいつも君とともにある」って言ってくれたんだもん。幸せの象徴なんだよこの手紙は。もう何もいらない、というか、もう失いたくないから、失わないで済むようにここで終えたい、って…思うよ…。私なら思う。
舞台版は尺の都合で結構駆け足なんですけど、そこが、なんていうか、アッシュの見た走馬灯みたいだな、って思いました。
登場人物の服がだんだん厚着になっていく演出も好きです。時の流れを端的に表していましたね。この密度の濃いひとときは決して短くない時間だった、なのに、たった数時間で終わっていく。
私は光の庭が大大大大大好きなので、正直カテコ後くるかな〜って期待してたんですけど、走馬灯なんだとしたら、ない方が美しいですね。
アッシュは知らない。知ることはない。英二が自分を失ったあと抜け殻になるだなんて…知らなかったんだよ……ッ………!
カーテンコールで役者のみなさんが涙をこらえるような顔だったのがすごくすごく印象的でした。初日から泣いてたくるむくんはカテコでは笑顔だったけど。かわいい。
今回は一度も劇場で観ることが叶わず、くるむくんが役を生きるさまを見られなかったのですが。きっと、稽古期間から英二として生きて、板の上で英二として感情を動かして、素晴らしいお芝居だったんだろうな。
アッシュを慈愛で包み込んだり、あるいははしゃいだり、踏ん張ったり。身を裂かれるような思いでアメリカを後にしながらも、さよならは言わないと気持ちを寄せたり。
カメラを通して観るのと、生で、劇場でくるむくんを目で追いながらその感情を受け取るのとでは、全然違うから、すごく、すごく残念です。
くるむくんが今このとき、英二として生きたお芝居はもう見られないんですよね。悲しい。
個人的に、ルカを演じてからくるむくんのお歌もお芝居もものすごく質が高くなったな、って思っていて。その後、一年半かけて役を作り込んだパライソの鶴丸も素晴らしくて、その直後の英二だったので、なおさら、今のくるむくんのお芝居を観たかったな、って思っています。
今この瞬間は悲しい。それをしばらくは噛み締めていたい。陶酔させてくれ。
私は2/3のマチネに行く予定でした。
私と同じくチケットを握りしめて祈っていたファンも、そして公演を続行するために奮闘されていたカンパニーの皆さんも、みんなみんなお疲れ様でした。悲しいね。悔しいね。
どうか私たちの傷がゆっくりゆっくり癒えていきますように。そして、心置きなく観劇を楽しめる日が来ますように。
現実には難しいことだと理解した上であえて言います。再演、いつまでもお待ちしています。
またあのバナナフィッシュの世界に浸ることができますように!
三日月宗近という機能、あるいは呪いー三日月と鶴丸について考えるー[刀ミュ考察]
なんかそれっぽいことこねくり回して「三日月と鶴丸を絶対絶対仲直りさせてくれよな!!!」って言いたいだけの記事です。結論ありき。
鶴丸(を演じている役者さん)推しゆえに多少認知が歪んでいます。こういう解釈もあるんだな〜程度でお読みください。
三日月宗近という機能、あるいは呪い
「三日月宗近という機能」、初出は『葵咲本紀』ですが、イコール物部システムとは限らないんじゃないかな、と思っています。
個人的には、「機能」と「手段(=物部)」は分けて考えたほうが良いのではないか、と。
「機能」の話からします。
三日月宗近だけが「存在が確か」である。このことは『つはものどもがゆめのあと』で髭切が言及しています。「君だけが」とも。
つまり、これは三日月宗近だけに与えられた設定だと思うのです。三日月だけが存在が確か。ゆえに、「ひとの意識に介入する力」を有しているのではないか。
いわば洗脳ですね。『つはものどもがゆめのあと』では源頼朝に対してその力を行使しました。
洗脳とは違うけれど、脳に語りかける、というふうにその力がふるわれた場面もあります。『幕末天狼傳2020』において、病床にふせる沖田総司の前に猫として現れました。そして、近藤勇が処刑されることを示唆します。
そして、『東京心覚』では、水心子の意識に介入するかのような描写が見られました。
これらの「ひとの意識に介入する力」、これが「三日月宗近という機能」なのではないか、と思っています。
これを鶴丸は「機能」と言いましたが、光世は「呪い」と称している。
呪い、ということはつまり、視点を変えれば祈りとも願いとも取れるものなのでしょう。
三日月は「優しすぎる」と『東京心覚』において平将門が語っています。
おそらく彼が、「悲しい役割を背負わされた者」に手を差し伸べ「物部という役割」を与えているのは、その優しさに起因するものと思われます。
けれどそこには確かに、救える者と救えない者が存在する。「線を引かれる」。そう発した水心子はソハヤの「必要な時もある」という言葉を聞いて考えを改めます。しかし、鶴丸は憤った。
視点を変えれば、呪いでもあり祈りでもある。
しかし、物部システムそれ自体が呪いであり祈りであるとはどうしても思えないのです。
だって、大仰すぎる。
物部システムはミュージカル刀剣乱舞の世界に最初からある世界観ではないのです。三日月宗近というキャラクターが、生き延びさせた者たちに与えた役割なのです。
呪いでもあり祈りでもあるというのなら、その役割を与えた、そのシステムを構築した、三日月宗近自身を指す、と考えるのが自然です。
「機能」と「物部」を分けて考えます。
「機能」とは、三日月宗近の持つなんらかの力、おそらくは「ひとの意識に介入する力」だと思われます。それは呪いでもあり祈りでもある。
そして物部は「手段」であり、優しすぎる三日月がその力を行使して救える者を救おうとする、そのための手段なのだと思います。
鶴丸が憤っているのは、この、物部システムという「手段」についてだと思うのです。
三日月宗近という機能に対する鶴丸国永
『東京心覚』で描かれた本丸の状況から、三日月は本丸にほぼおらず、そして審神者でさえも手出ししづらい状況にいるのでは、と推察しています。
では、それはいつからそうなったのでしょう。
『つはものどもがゆめのあと』では出陣任務に応じています。ですが、『葵咲本紀』では、鶴丸の「あいつは大人しくしてるのか」という質問は否定されたようす。
『つはものどもがゆめのあと』から『葵咲本紀』までの間に起きたこと。というか、三日月宗近視点において起きた変化。
それは、「審神者が源氏に自身を探るよう命じたこと」なのではないか、と思います。
でも、待ってほしい。
そもそも審神者はどうして、源氏に密命したのでしょうか。謀叛の意志はないと信じつつも、何かやっているようなので探った。では、なぜ、「三日月が何かやっているようだ」と察したのか。
これ、そうに違いないと期待してるんですが、今度の双騎で描かれる気がします。大倶利伽羅との出陣で、鶴丸は見つけてしまったんだと思います。「三日月が何かやっているようだ」、と。*1
ただ、その任務を経ても、源氏に密命させても、物部システムまでは把握できなかったでしょう。それを審神者が把握したのが、『葵咲本紀』だと思います。
鶴丸は、信康の姿を見てすぐに「物部(=「三日月の手の者」であること)」を把握した。もともと、確信には至っていなかっただけで、なんらかの関与を察していたのだと思われます。
観客側に提示されている物語の範囲において、三日月が意識に介入してみせた場面に鶴丸は居合わせていません。
そのため、その力について知っているのかどうかは不明ですが、あれだけ強固な信頼関係があるのなら、審神者から聞き及んでいるのではと思います。
源氏が審神者に三日月が頼朝を洗脳しようとしたことをどう報告したかによりますが、まあ、してるでしょ。たぶん。膝丸がいるわけだし。
「三日月宗近という機能」≠物部システムだとすると、光世は物部のことは知らないかもしれないんですね。「ひとの意識に介入する力」を使って三日月が何をしているかは知らない。だから、「呪い」だと答えたのかもしれない。
そして、繰り返しになりますが、鶴丸の「好きじゃない」「ふざけやがって」という憤りは、物部システムに対する言葉なのではないか、と思っています。
「救ってやれよ、三万七千人」。「悲しい役割を背負わされた者」だけ、あるいはその中の一部だけを(歴史に影響が出ないように)「線を引いて」救うやり方に対して憤っているように感じられるのです。
そういえば鶴丸って、長期任務、何してたんでしょうね。双騎でなにかを察知した鶴丸が、三日月が過去に出向いて介入した歴史を調査していたのかもしれない。そしてそれは、平将門や太田道灌、天海、勝海舟に関する歴史だったのかもしれない…。
ていうか対比されすぎなんですよこのふたふり。なに。なんなの。
半座って、なに?
「半座わかつ 華のうてな」の部分を聴いてからず〜〜っと考えてきたんですけど、この「半座」、何を指しているんだろう。
先に言っておきますと、もう、何回こねくり回しても三日月と鶴丸を指すとしか解釈できなかった。ごめんな。(?)
ふたふりは親しかった、あるいは意思疎通が図れていたが、"何かあって"今はそうではない。少なくともそれは確定事項だと思います。
で、ここからは私の解釈です。
浄土仏教において、「先立たば 遅るる人を 待ちやせむ 華の台の 半ば残して」という歌があります。義経と弁慶の辞世の句のやりとりがこれに当たります。だから、華のうてなを今剣と岩融が歌ったのなら、ああそういうこと、って思えたんですよ。
だけどこれを歌ったのは三日月ひとふり。しかも1と2だから3もあるかもしれない。余談ですけど。
「蓮のうてなの半座を分かつ」。
法華教において、二仏並坐像があります。「位の高い仏たちの中で、対等なもの同士が一つの座を分かち合う」。
…やっぱり、華のうてなにおける「半座わかつ」二人は三日月と鶴丸だと思います。
ミュ審神者と三日月(というか刀剣男士)のことかなとも思ってたけど、そうだとしたら三日月が審神者の前では舞を披露せず、そして「主は知らなくて良い」と言う意図がわからない。分かつ気ないじゃん。*2
「宿世わかつ」も「因縁を分かち合う、共有し合う」って解釈できちゃうんですよね。
この二人が古くから本丸を支えてきた………。
いや、冷静に考えて、レア5とレア4が古参って何?どういう状況?
初期刀の次に三日月と鶴丸が顕現、という可能性もなくはないですけど、やっぱり不自然じゃいなですか。浦島くんの発言からは「三日月と鶴丸」とそれ以外の刀剣たちの間の顕現時期が大きく空いている、と考えられる。
じゃあ初期刀は誰なのか。初期刀の次に三日月と鶴丸が顕現したのだとして、4振り目5振り目は誰?どこいった?古参じゃないの?という疑問。不自然に思える。
…これは鶴丸のソロ曲「キミと見上げたあの日の空に」の歌詞を見た時からず〜〜っと思ってたんですけど……。
ミュ本丸、「三日月と鶴丸」以外を残して一度崩壊している可能性、ないですか。こわ。
今後、なぜこの2振りだけが古参なのか、ミュ本丸に何が起きたのか、「三日月宗近という機能」について鶴丸はどう思うのかどういうスタンスで行動しているのか、明かしてくれ……ッと切に願います。
ていうか一度殴り合っとく?その方が早いかもしれない。太刀風熱く吹き抜ける〜〜した後仲直りしよ?ね?????
付記として。
余談、というか、もうこじつけでしかないんですけど。
鶴丸が一部で歌ったソロ曲が「真白な鳥(葵咲)」と「無常の風(パライソ)」で、三日月は「この花のように」「華のうてな」を歌ったの、やばくないですか。もう絶対次三日月が本公演出たら月ってタイトルに付く曲歌うじゃん。「月傾く雪の朝に春を想う」じゃん。*3
月傾く雪の朝…?極夜?Endless Night???いやまって…雪の朝…霜月騒動…ウッ頭が…。
*1…伊達双騎の予想
・伊達政宗の兜の三日月も三日月宗近の紋(真向き月に星紋)も起源は同じ妙見菩薩信仰
・支倉常長(1613年伊達政宗の命によりローマへ渡航するも通商交渉は実らず1620年帰国、2年後死亡)の時代へ出陣
・パライソの舞台である島原の乱は常長の死の15年後に勃発しているため、ほぼ同じ時代
・パライソでは「物部」を名乗る忍が登場している
・歴史上死んでいるはずの者が生きて忍(パライソでは知恵伊豆に仕えている)となっていることを知った鶴丸はそれを審神者に報告、鶴丸は単騎で長期任務に出て、大倶利伽羅は青江と遠征へ(みほとせ)、源氏に密命を出して三日月を探らせたのではないか(つはもの)
*2…ただ、壽歌の「半座を分かつは青き星」は歌っているのが蜻蛉切と大倶利伽羅なんですよね。なので無難に、青き星を地球と解釈して、「審神者と刀剣男士が半座をわかつ」と思っていて良いのかな〜と思っています。今のところは。
*3…歌合の神遊び前に鶴丸が唱えた口上、月以外はもう語られた物語なんですね。つはもので花の香に昔を懐かしみ、葵咲で鳥の囀りに耳を澄まし、パライソで風に散る草葉の露に袂を濡らし、あとは月傾く雪の朝に春を想うのみ…。
[祝・完走]静かの海のパライソ感想[祝・伊達双騎]
大千秋楽おめでとうございます&お疲れ様でした!!!!!
来鶴さんの「お疲れさん!」、めちゃくちゃうれしかった〜〜!声が出せない観客の代わりに舞台裏に控えてるキャストさんたちが歓声送ってたのもめちゃくちゃめちゃくちゃうれしかったよ〜〜パライソ〜〜ッ…大好……………。
おめでとうありがとうの気持ちで感想書きました。めちゃくちゃ長いので眠れない夜とかにお読みください。
パライソ感想(鶴丸以外)
推しが出ていないシーンで一番好きだったのが、右衛門作音頭でした。
噂が伝播していく恐怖。それをすごい感じました。演出すご。右衛門作の叩いた太鼓が足音になり、「天草四郎が我らを導く」という救いが不協和音になっていく。ひとの愚かさにゾッとしました。
作品のコピーにもありましたが、「これが、彼らの日常」なんですよね。
刀剣男士の使命は歴史を守ること。その重みを、私はまったく理解してなかったな。審神者を6年10ヶ月やってるのに…。ゲームではたった数回クリックして戦闘して進軍、だけど、その間人間もいるだろうし、遡行軍の動き次第では人間に手をかけないといけない、だって戦争なんだから。実感させられました。
そしてしんどい、あの兄弟。
あくまで私の考えなのですが、兄弟たちは決して不幸ではなかったんじゃないかな、そうだったら良いな、と思います。浦島や鶴丸から寄り添いの言葉をかけてもらったことは、多少なりとも救いであったような気がするのです。
浦島に母を慕う気持ちや兄弟仲を肯定してもらえたこと。鶴丸によく戦ったと褒めてもらえたこと。それらは、物語の結末で兄は死に弟は物部となる、不幸だったかもしれない一生の中での彩りになったのではないか。そうであってほしいんだ私は。浦島くんと海と夕焼けを歌うあんちゃん、めちゃくちゃ良い笑顔なんだもん。おかしなおっちゃんに石を命中させたことを鶴丸に褒められるふたり、幸せそうなんだもん。
……続編で成長した弟くんが鶴丸を恨んでたらヤダ〜〜!
あーしんどい話でしたね。。大好き。。
松井役の笹森くんが、たびたび歌合で顕現したときの情景を印象強く語っておられましたが、ア…てなる。なってるずっと。
松井から鶴丸への感情は、刷り込みに近いのかもしれない。歌が聞こえて、ひとのからだを得て、そして初めて目にした白い刀は古参で強くてみんなから信頼されていて。
島原の乱に使われた刀であるがゆえに、これで良いのか?と戸惑いながら鶴丸に従う松井の表情がほんっと、ほんっとに…。刷り込みにプラスして、信頼して良いはずなんだ、従って良いんだと自分に言い聞かせていたらだんだん…という変化がつらかったです。松井。好きだょ。。(?)
兄弟の歌う「ここに生まれ落ちた」「誰も教えてくれない」、歌合で松井と桑名が顕現したときの「なぜ我を生み出した」と同じだな〜と思いました。刀ミュ、全体的にそういうメッセージを発してますよね。考え続けろ、という。
「問い続けよう」と覚悟して刀剣男士になった松井が、島原の乱で迷いながら任務を遂行するの、すごい、すごいよね。語彙がなくなる。
豊前に寄り添ってもらって、そして元の主に「赤い血を忘れるな」と言われて、あの松井はもう大丈夫なんだろうな。考え続けるんだろうな。って思います。
あと、大倶利伽羅〜〜!
突然2部の話を挟みますが、回替わりMCめっちゃ最高だった。笑ってはいけない大倶利伽羅。ばしこくんまじでアドリブうま。私が現地で観れた回が偶然、日向が泣き落としして大倶利伽羅が懸垂してくれる回だったんですよ!ありがとう。本当にありがとう。
1部の話に戻りますね。大倶利伽羅ソロやば…やばくないですか?曲名早く知りたい〜って公演期間中もだついてたんですけど、白……白き…息………?!だめだろそれは。(?)
大倶利伽羅が刀を振るうたびに霧が晴れるの…霧っていうか…霜…これ…霜じゃないですか…?雪が降る演出も意味深すぎる。霜月騒動を見せてくれ。
大倶利伽羅、ほんとに良すぎて元々大好きだったけどさらに好きになってしまった。でも大倶利伽羅くんのことを話そうとすると鶴丸国永さんの話になっちゃうから…。
もう鶴丸国永さんの話をします。
鶴丸スパルタ国永さんについて
なんであんなにスパルタなんですかね。ミュ鶴さん。OJTなの?
浦島くんや松井が人を斬るのに躊躇いを見せていて、ウ〜〜ッとなりました。
みほとせ男士と比べると、パライソ男士たち、明らかに人を斬るのを躊躇ってるんですよね。この差はなんだろうと考えたとき、本刃の性格や来歴もあるかもしれないけど、やっぱり任務への慣れが大きい気がします。
刀剣男士は最初は人を斬るのに抵抗があるのではないか。慣れてくると、使命のためなら例え人間であっても斬れるようになるけれど、最初は時間遡行軍以外は斬りたくないんじゃないかな、って。
任務を経て、人間でも斬れるようになって、そしてみほとせで男士たちが直面したように、その剣の重みを知る。「考え続けることが俺たちの役目」。鶴丸は、早くこの考えまで至らせたかったのではないか、と思うのです。
その結果、浦島にはケアが必須と判断したから、「見せたくないだろ」と釣りに出かけさせた。自分の信念には反するけれど、弟を物部に託すことも受け入れた。
一方で、「鬼だろ」と言ったら「いや」「今がその時だ」と鶴丸を肯定した豊前の成長は、想定外だったんでしょうね。松井の支えになってほしいと編成したんだろうけど、それでも、想定していたよりも随分頼れる刀だったんだろうな。続く心覚での豊前の「知りもしないでころしたくない」は、鶴丸隊長の影響を大いに受けていそうだな、と思います。
先述したとおり、ミュのメッセージなんだと思います。「考えるのだ」「考え続けることが俺たちの役目」。
で、じゃあなんで、考え続けさせようと急いでいるんだろう。
葵咲での明石への態度をみるに、登場時点からそうなんですよ。ミュ鶴さん。スパルタ的というか、刀剣男士を育てること、みたいな意識が強い。そしてそれは、三日月宗近という機能を知ったから変化したわけではないと思います。
長期任務に原因があるのか。それとも、本丸の過去に何かあるのか。だって古参なんですよね。それも、三日月と鶴丸だけが…。
ここらへんはまた後で考えます………。
鶴丸隊長と島原の乱
ロザリオを見つけたときの鶴丸、笑みが最初はキラキラ!て感じで、咀嚼しきれなかったんですが、大楽に近づくにつれて自虐の感情が強くなっていってましたね。演技うま。
島原への出陣の任務をどう遂行するか、天草四郎がころされたときから考え続けて、そしてあの瞬間、ロザリオを見つけた瞬間、思いついた案がまとまったんでしょうね。成り代わり、歴史を立て直す作戦を。
もうさ〜〜「刀剣男士やめるかい」、しんど。
意図的な感情表出だ!!!!!!!て思いました。バイステックの七つの原則。鶴丸国永さん、もしかして社会福祉士の資格持ってる?
この瞬間、自身の抱いた怒りさえも、松井や浦島の感情の増幅に使っているんですよ。ふたふりが自分の感情を正しく認知して表出できるよう、あえて自身の怒りをあらわにしている。やば〜〜。
鶴丸は出陣先が島原の乱だと告げられた時点で、あらゆる可能性を視野に入れていたんだろうな、と思います。「複雑な任務ではない」けれど、37000人が死ぬつらい任務なので。
すごく慎重に動いていたと思います。鶴丸隊長。
どうして、鶴丸は出陣先が島原だと言わなかったのだろう。浦島と松井が任務に慣れていないからだったんじゃないかな、と思いました。あまり状況を理解できてない時に色々説明されても飲み込めないじゃないですか。だから、言わずに出陣した。
おそらく最初は、その都度説明するつもりだったのかもしれません。少なくとも、浦島には。でも彼は素直で、穢れがなく、優しくて、鶴丸はそれを失うのが怖かったのではないかな、とか、そういうことを考えました。
そう、不思議だったんですよ。なんで浦島を編成したんだろう。浦島は鶴丸にとっての「かつて持っていた、今は失われた白」なんですかね。怒りで抑えつけるしかない悲しみややるせなさ、人に寄り添いたいという情を、浦島が担ってくれることで、鶴丸は任務のために切り離しておける。
そして、浦島くんが鶴丸にとっての白なら、右衛門作が鶴丸にとっての「白の中の黒」なのかなと思ったりもしました。
鶴丸から右衛門作への嫌悪、めちゃくちゃ大きかったじゃないですか。あれは2部ソロの「意志も闘志もなけりゃ自由ないディストピア」がすべてな気がしています。
右衛門作の作り上げた天草四郎信仰、光とか救いとか聞こえの良い言葉を使ってはいるけど、要は思考停止でしかないんですよね。「許された」と歌いながら幕府側の首を掲げる。異教徒であるとして寺を燃やす。奪われる苦しみも悲しみも知っているのに、思考停止して、神の名のもとひとからは奪う。
生きてたんだよ。みんな。
鶴丸国永と大倶利伽羅
大倶利伽羅は作中ずっと鶴丸のそばにいましたね。誰よりも深く理解して、早く動いて、鶴丸が歌えば旗を振り、静かの海に逃げたいと言えば肯定し、よろけたら支えて帰ろうと声を掛けて。ここ、結構意外だった。
みほとせを経験した大倶利伽羅だから、と言えばそれまでなんですけど、そうなんだろうけど。得られた感情があまりにもクソデカすぎて全然咀嚼できてないです。まだ。時間くれ。
静かの海をふたふりで歌った後の大倶利伽羅の「そうだな」、優しさゆえに鶴丸に寄り添ったわけじゃなさそう。好き。
たぶん、吾平の墓に誓った「戦をすべて終えたら」と同義なんですよね。鶴丸の言う、「風の吹かない退屈な静かの海へ行ってみたい」。
刀剣男士としての使命を終えたとき、いつか辿り着きたい、それはパライソを目指した人々と同じ信仰で。信仰は必要なんだよねえ。こんな任務ばっかりしてたら心が壊れちゃうもん。
三日月は、自分や仲間の心を守るために物部に縋ったのかもしれない、とも思いました。
そして今回の鶴丸にとってはそれが大倶利伽羅だったし、たぶん大倶利伽羅はいつだって鶴丸を受け入れるんだろうな。だって「この身を鍛えるのみ」「お前は崩れるな」なので。いやクソデカすぎる。時間くれ。
……て公演期間中メモしてたら、伊達双騎がきちまったよ。しかも過去編…過去編?!双騎で過去編やってくれんの?!!手厚!!!!!
リアタイで配信みてたんですが、カテコ後に遡行軍との戦いが始まって伊達が出てきて、「でもあのふたり〜」って回想になった瞬間画面止まりました。ここで止まる?!リロードしまっくったらすでに大倶利伽羅が倒れてたので、ア〜〜生意気やってボコられちゃったヵナ…て思ったんですが……。オタクの幻覚?????
楽しみだね〜〜〜チケットぜって〜取るゾ!の気持ちで生きていきたい。
感想まとめ
鶴丸は、最初の天草四郎や兄弟たちに、かつての主と重ねていたのかもしれない、とも思いました。安達貞泰のほうです。鶴丸国永を使うことなく、まだ幼いうちにお家騒動に巻き込まれ命を落とした子。しかも死後、墓まで暴かれて。
なんとなく似てる気がしました。
ミュの鶴丸は、「幼い子どもが将として担ぎ上げられ命を落とした」「大勢の命が失われた」島原の乱を、(かつての主である)安達貞泰視点での霜月騒動に重ねているのかもしれないな、って。
いや私がミュで霜月騒動をみたいがゆえにこじつけてるだけなんですけど。
これまた私が岡宮来夢くんを推しているがゆえの贔屓目かもしれないのですが、来鶴さんの表情の演技がさいこ〜ッでした。
特に目。目がすごいことになってる。
くるルカの時も感じたんだけど*1、目を細める時に乗る感情の質量が進化してるというか、感情にこ〜〜粘度というか湿度というか、そういうのが加算されるようになったな、って…。
鶴丸、ほんと、何を抱えているんだろう。
わざわざ浦島に「なんで強いんだろう」「強い人は悲しみを背負っている」と言わせたわけなので、伏線だとは思うのですが。
三日月は、歴史を川の流れに例えて大筋が変わらないのであれば「救える範囲で」救ってやりたい、と言う。それは優しさにほかならないし、三日月が自分や仲間の心を守るための機能でもあるのかもしれない。鶴丸が今回の任務で大倶利伽羅を編成したように。
だけど、そこには、「救う人間をこちらが選別する傲慢さ」がたしかにある。「救える範囲」は歴史の流れによる。
水心子くんは心覚でソハヤの「(守るために)必要な時もある」に納得してたけど、私は全然、全然納得できないです。
鶴丸に感情移入しすぎちゃった……。
「やれるもんならやってみろ」、めちゃくちゃ複雑な感情ですよね。もちろん怒りもあるし、八つ当たりでもあり、悲しみも悔しさも内包していて、強がってもいるのかな〜って。
三日月の意図や気持ちは理解している、でもそれじゃあんまりじゃないか。その悲しみを、「自分を憎めるくらい」傷ついている鶴丸は素直に表出できない。だからあそこで大見得を切る演技なのかな。去年のsparkle*2で、男らしさを求めて「粋=時代劇」と解釈したと語られていたので、強さの演出のような気もするし。複雑!感情!!!て感じ。
来鶴さんがカテコで言ってくれたように、鶴丸国永にお疲れ様、って言いたいけど、ゆっくり休んでほしいけど、でもあの刀はそんなことを望んでいないので。演じている岡宮来夢さんはゆっくり休んでほしいな〜って思います…。
一年と8ヶ月、本当に本当にお疲れ様でした!
素敵な作品をありがとうございました。
付記として。
せっかく作って行ったのに、心の準備が間に合わず(刀ミュ初現場ゆえに無作法があったらとこわくて)出せなかったうちわを見てください。供養。
伊達双騎では絶対うちわ振る〜〜〜ッ………!
*1
王家の紋章観劇ブログ
*2
sparkle vol.40より
[祝日本上演]ハリーポッターと呪いの子脚本版感想
大好きな大好きなハリーポッターシリーズ8作目が日本でも舞台化されるということで、
唯一未読だった呪いの子を購入・読了しました!
ちなみに、現地で観劇するかは考え中です。
めちゃくちゃ観たいんですが、なにぶん地方住みなので…。航空券高騰故我可処分所得限界………。
以下、感想です。ネタバレ注意。
(あらすじはまとめるのが苦手なのでウィキを読んでください)
タイムトラベルものが苦手すぎるので、脚本版先に読んどいてよかったな〜て思いました。舞台から先にみてたら困惑してた気がする。
最初に、私がこの話を理解するためにやった整理から書きます〜〜。
まずはここから吐き出させてくれ。
最初のタイムトラベルで、三大魔法学校対抗試合の第一試合に介入したアルバスとスコーピウス。彼らは大敗したセドリック・ディゴリーがいる世界線の25年後に帰還。
↓
ハリーとジニーは結婚しているのでアルバス(やほかのきょうだい)は存在。ドラコも同様にスコーピウスを授かっている。
↓
ハーマイオニーとロンが結婚していない。ハーマイオニーは教職に(つまりこの世界での魔法大臣はちがう人物)。
↓
ハリー、ジニー、ドラコは息子との関係に変化がないため、同じような問題を抱えており、同じように息子たちがタイムトラベルをしているもよう。
並行世界がいくつも存在しているわけではなさそう。なので、シンプルにタイムトラベルものと考えた方が良いかもしれない。
苦手科目ゆえにアズカバン履修当時から逆転時計のこともよく理解できてなかったんですが、
逆転時計で過去へ飛んだら、そのままその過去からつながる現在の世界線だけが残る、みたいな感じで良いんですかね。たぶん。
終盤で飛んだ世界線において、毛布に記したメッセージが元いる世界線のハリーに届くのがどういう理屈なのか、理解するのにちょっと時間かかりました。
うまくいくかはこの時点のアルバスにはわかっていなかった。もしもうまくいくのなら(ハリーにメッセージが届くのならハリーが来て助けてくれるはずだから)、
この世界線は元いた世界線とつながる、だから毛布も共有される、って理屈なのかな、と思います。
タイムトラベルもの、めちゃくちゃ頭使う。
でもす〜〜ごいおもしろかった〜〜!
ハリーポッターシリーズが大好き〜!という気持ちが強まりました。
みんなの成長がリアルすぎる。
父の名声と自身の境遇に悩んでいるアルバスの痛ましさがたまらなく辛かったです。
拠り所がスコーピウスしかなかったアルバスが、あの晩デルフィーニに出会ってしまったこと、そしてハリーと喧嘩をして一番言われたくなかった言葉を言われてしまったことで、すべてが動き出したんだな、と。
「セドリック・ディゴリーを生き返らせること」で父超えを果たそうと思ったんですね。
作中の言葉を借りるならば、「和解」ではなく「戦争」を一旦選んでしまった。思春期。
スコーピウスが可愛すぎましたね。
ドラコに育てられて、しかもヴォルデモートの息子だと噂され続けて、それなのにあまりにも"""純"""………守りたい………。
デルフィーニも被害者なんだよなあと思います。
親の愛を知らないまま、「ヴォルデモートを復活させるため」だけに洗脳されてきた哀れな子なんですよね。
この題にある"呪い"は「親子という呪い」と解釈してもよさそうだな、と思いました。
アルバスもスコーピウスもデルフィーニもみんなみんな父親の存在と関係に呪われていた………ウ………。
原題は"cursed"なので、シンプルにそのまま「呪いの子=デルフィーニ」と解釈しています。
「呪い」を「予言」と解釈するなら、「よけい者が〜」という予言を受けたデルフィーニも「七めの月が〜」の予言が指すハリーもそうなのかな。
デルフィーニにかけられた「呪い」が洗脳だとするならばアルバスにもスコーピウスにも言えそうですね。
個人的には、すべての子どもは親から大なり小なり洗脳されている(呪いを受けている)という価値観を有しているので、すべての子どもに言えるなあとも思います。*1
「あの頃子どもだった私たち」というか。
最後のほうの、ハリーがアルバスと対話した際に言った「欠点がこの二人を偉大にした」が大好きだな〜〜!
ダンブルドアの、過去の失敗から自身の傲慢さを理解して権力を避け後進の教育にすべてを捧げた、ってところがめちゃくちゃ大好きなんですよ〜〜。
ハリーのこの一言にダンブルドアの高潔なところすべてが込められている。最高。
ハリーがダンブルドアからの愛情を正しく受け取っていて、(肖像画ではあるけど)それをダンブルドアに伝えられた、っていうのだけでだいぶ…だいぶ救われました…。
ダンブルドアはすべてのホグワーツ生を愛していただろうし、ハリーだけを特別愛していたなんてことはないだろうけど、それでも、スネイプとハリーは特別な椅子に座っていた教え子だっただろうなと思うのです。
公開までに原作と映画版をみかえしたいです。ハリーポッターシリーズが大好きという気持ちを極限まで高めてから臨みたい。
みたい人全員にチケットがご用意されますように〜〜!
(*1) 毎日自分自身に言い聞かせている言葉です。「すべての子どもは親から呪いを受ける」。賢者の石公開時ハリーと同い年だった私も今やハリーと同じ、子どもを育てる親なんですよ〜。時の流れ。
(*2) ファンタビも大好きです。3作目、いつまでも楽しみに待っています。来年公開されますように〜!